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南京を旅して②~南京名物~
南京は鴨が有名です。
これは塩漬けの鴨。冷菜で、塩味が効いているのでつまみに最高です。
南京のビールと一緒においしく頂きました。 店頭で鴨がまるごと売っており、それをその場でぶつ切りにします。
日曜の朝から主婦たちが列を連ねている風景をよくみかけます。
これは鴨の舌。そのまま引っこ抜いてきたようなリアルさで、ひとつだけしか食べられませんでした。
食べられる部分はあまりありません。
そしてこれが鴨血汤。スープが血の色をしているわけではなく、鴨のレバーが入っている春雨スープです。
夫子廟周辺ではこのメニューの看板をかなり見かけます。お味は…臭みが強いので好き嫌い別れると思います。ちなみに私は嫌いなほうです。
お腹いっぱいになった?ところで夫子廟を散策。
ペットショップ、チャイナドレス、麻雀牌、靴下屋などが軒を連ねています。それにしても…
それにしても、亀入れすぎ、金魚入れすぎ、マネキン並べすぎ
見ているだけでも楽しいですが、値切り交渉をするとまた楽しいと思います。(つづく)
上海の日本人留学生:okei
作者:日本Webリポートt&ニュース
更新日:2008年11月19日 14時43分
小春日和の物騒な森
札幌はすでに初雪がちらつきました。
道行く人々は早くも厚いコートにマフラーを身につけ、冬の装いです。
まだ冬の入り口、これから徐々に氷点下の世界の生活となります。
この時期、ときどき暖かい日もあります。
小春日和という言葉がぴったりです。
小春日和の一日、これまで訪れたことのない札幌郊外の物騒な森に出かけてきました。
< 幸運をもたらす木 >
日中晴れ上がる日は雲がないため、明け方 地表の熱が奪われる放射冷却現象がおきます。
この日も午前6時の気温は0.5℃まで下がり、札幌では今シーズン一番の冷え込みとなりました。
森の入り口の水溜りには氷が張ってました。
しかし気温は徐々に上がり、日中の最高気温は9.4℃で、風もなく穏やかな天気です。
足取りも軽やかに、30人ほどの自然愛好家とともに森に入りました。
見上げると枝先などに鳥の巣のようなものがたくさん付いている高木に出会いました。(写真右)
ヤドリギです。
樹木の枝などに寄生する常緑樹です。
森の落葉樹はすっかり葉を落としているため、この時期ヤドリギはとても目立ちます。
ヤドリギは根をつけず、木の枝などに寄生して養分を吸収する「森の居候」です。
秋に赤や黄色の実がなりますが、木の実は粘膜に包まれています。
このため木の実を食べた鳥がフンをしますと、実が枝に付着し、そこから繁殖します。
双眼鏡で見ますと、ヤドリギには赤い実がビッシリ付いていました。(写真左)
これらの実は鳥の大好物です。
風雪にさらされ軟らかくなると、鳥があっという間に食べつくしてしまいます。
ヤドリギはヨーロッパでは薬用や魔除けに使われ、幸運を呼ぶ木と信じられています。
< ヒグマの森 >
森を歩いていますと「熊出没注意」という看板にあちこちにであいます。
右の写真の看板には「通り道10番奥の山林でヒグマの足跡が発見されたと書いてあります。
発見されたのは10月31日ですので、10日ちょっとしか経っていないではありませんか。
ご婦人の間から「わあ 怖い」 一瞬緊張が走ります。
この日出かけた森は、クマが出没することで知られる盤渓(ばんけい)の森です。
市民の森として人が歩く程度の道は整備されていますが、クマがでるため敬遠されています。
盤渓にはスキー場があり、冬はクマは冬眠しますのでスキー客で賑わいます。
クマが出るくらいだから都心から相当離れているところだろうとお思いでしょうが、そうではありません。
私の自宅からバスでわずか25分でいけるところです。
札幌の西にジャンプ競技で知られる大倉山や三角山などの300mクラスの山々が連なりますが、ちょうどその裏側に当たります。
札幌では盤渓だけでなく、後背の山のあちこちから毎年のようにヒグマが現れ、そのたびにハンターが出て警戒しています。
ヒグマは体重200kg以上にもなり、本州のツキノワグマと違ってとてもどう猛なクマです。
世界を見渡しても人口100万以上の都市で、どう猛な動物と接して住んでいるのは札幌市以外にないそうです。
とはいってもヒグマにとっては迷惑この上ないことかもしれません。
これらの地域はもともとヒグマの生息地だったのです。
ヒグマのテリトリーに人口が膨れ上がって人間が入り込んだ地域です。
つい先日 十勝の高速道路で、都市間バスとヒグマが衝突するという前代未聞の事故がありました。
これもヒグマのテリトリーに高速道路ができた結果といえるでしょう。
昔 国会で自民党議員がクマしか出ないところになぜ高速道路を作るのかと、当局に噛み付きました。
すると当時同じ自民党議員で、十勝出身の鈴木宗男議員が「お前は見たことがあるのか」とヒグマのような鋭い眼光で一喝し、質問した議員は謝罪したという話が思い出されます。
現実に起きた高速道路上の事故で、100kgを越すヒグマ君はそのまま昇天しました。
バスの乗客20人は無事だったそうですが、バスの前部は巨体のクマとの衝突痕がくっきり残っているのが、テレビで大写しされていました。
写真は即死したヒグマです(東日本高速道路北海道支社提供)
人間はヒグマを怖がりますが、実はヒグマも人間を怖がっています。
おいらのシマに変な動物(人間)が入ってきたと思ってるのでしょう。
むしろヒグマは人間を遠巻きにしてみているんです。
人間がヒグマに襲われるというのは、何かのアクションがあり、ヒグマにとって自分の方が危険と判断したとき、ヒグマは人間に襲い掛かってきます。
昔から言われているクマに出会ったら死んだ振りをするのがよいというのも、一理あるようです。
この日のフィールドワークには野生動物の専門家も同行し、一通りの注意事項を聞いた後、専門家を先頭に森に入りました。
< ヒグマの生活痕 >
この時期山道は落ち葉で覆われます。
さらさらさら、落ち葉を掃くようにして歩くと、森にきたんだという実感がします。
専門家が落ち葉のくぼみをみつけ、木の枝で掘り始めました。
この穴はクマが掘った穴だそうです。(写真下左)
見上げると木の枝に「クマの堀り跡 8年7月14日」というリボンがかかっていました。
専門家によりますと、穴を掘って蟻の巣をひと舐めしたのだろうということでした。

しばらく歩きますとトドマツの幹につめで引っ掻いた跡がありました。(写真上右)
ヒグマのひっかき痕のようでもあり、注意を促すリボンがぶらさがっていました。
ヒグマの生活痕をあちこちで見つけますと、ヒグマと同じ空間にいるという気持ちになり、単独行動しないよう注意して歩くようになります。
誰かが「フンがある」と叫びました。
専門家がしばらく見て、「これはクマではありません。タヌキのフンです」
タヌキにだまかされそうになりました。
クマのフンは3年前に見たことがあります。
まだ新しいフンでした。
黒光りしており、一度にこんなに出すのかと思うほど迫力のあるフンの山でした。
面白いことに動物の専門家はこうしたフンを詳しく観察します
この動物は何を食べて生きているのかがよくわかり、フンは動物学者の格好の研究材料だそうです。
< 晩秋のルビー >
シラカンバの林を見ながら森を歩きます。
シラカンバはまっすぐ天空に向かって伸びています。
アカゲラ、コゲラ、カケスなどの鳥が飛び交っています。
エゾリスが枝にそって走り回っています。
カメラを構えて、どこどこどこ?
小動物や鳥はすばしこくいうえ、遠くにいるため、そう簡単にはカメラに収めることはできません。
夢中でシャッターを押すと豆粒くらいに小さかったり、逆光で被写体は真っ暗だったりで、絞りを調整する余裕はありません。
動物写真は三脚で事前に構えていない限り、結果よしの世界です。
まもなく雪に覆われてしまう山の斜面に、小豆色の大きな実のついた植物をみつけました。
ツルリンドウです。
リンドウは全国どこでも見られますが、ツルリンドウはつる性になって他の植物に絡まって伸びています。
花はラッパ型で趣があります。
ただ色彩感の乏しい晩秋から冬にかけてのツルリンドウの紅紫色の実は、とても見事で存在感があります。
晩秋に輝くルビーでしょうか。
ツルリンドウの実は8mmくらい、一箇所で1~3個くらい単発で観察していましたが、10個も一度に見れる群生に出会うのは初めてです。
< 食用?有毒? >
山道の落ち葉の下から顔を出しているキノコを見つけました。
かさが10cm以上の大きなキノコです。
しかも落ち葉を払うと重なるようにキノコが次から次へと出てきます。
騒々しくなりました。
このキノコ食べれるの?
ヒラタケでないの。いやハタケシメジでないの。
これによく似たもの食べたことあるよ・・・喧々がくがくです。
毒キノコか、それとも食用キノコでしょうか。
引率した専門家は間違ったことを言っては大変です。
専門外のキノコには口をつぐんでいます。
結局誰一人採取する人はいませんでした。
私は個人的には食用可なるキノコとみました。
けど採取はしませんでした。
名前がはっきりしない限り食べる気持ちになれません。
後日キノコ博士に聞いてみようと思います。
それにしても実に自然豊かな森でした。
ヒグマのおかげで、人の出入りは少なく、それだけ自然のままの森が残っていました。
とくに大きなキノコが道のすぐ側に群生しているなんて考えられず、ヒグマのおかげです。
帰路 黄色く色づいたカラマツが青空に映えていました。
針葉樹でありながら落葉するマツの仲間です。
春の若草色、夏の緑、秋の黄葉、そして冬のマツカサ、カラマツは四季折々その表情を変えます。
カラマツが好きだという人がとても多くいます。
私も大好きです。
からまつの林を過ぎて からまつをしみじみと見き
からまつは淋しかりけり たびゆくはさびしかりけり
北原白秋は晩秋のカラマツをみてこの詩を作ったそうです。
森は葉が落ちても楽しいものです。
札幌:望田武司
作者:日本Webリポートt&ニュース
更新日:2008年11月13日 11時52分
札幌の時計台
南京を旅して①
南京に来ました
上海に来て2ヶ月目にして初旅行です。 上海から南京までは汽車で約2時間。往復で186元です。
チケットは出発駅の上海火車駅か街のチケット売り場(手数料あり)で購入することが出来ます。
10日前から購入できるそうです。
汽車は前後の間隔もわりとあり、座席にリクライニングもついているので快適です。
隣に座った中国人ときっと会話もはずみます。
南京駅に到着して右往左往していると、一人の女性からツアーを組まないかと声をかけられました。値段も高くなかったので一日ツアーに参加することにしました。
ツアー客は全部で10人程度。ガイドの女性は慣れた口調で説明を繰り返していました。早口で理解できません。
ツアーが開始してほどなく、お客さんとガイドさんの間で争いが発生。料金の錯誤があったようで、バスを停車させて険悪なムードに。10分ほどでなんとか和解したので早速出発。
はじめの写真は孫文の墓です。あいにくの天気だったのですが、天気がよければ頂上での眺めはとてもよいと思います。墓は山の中にあり、とても広いです。こんな墓をつくることができるなんて、孫文はなんて幸せなんだろうと感じました。
同じツアー参加者に孫文と毛沢東のどちらが好きかと聞いてみると、悩んだ挙句、どちらも好きだと答えてくれました。
いくつかお寺や庭園を回りました。お寺の周りでは子どもたちがメンコをする姿が見られました。メンコをしたことはないけれどなんだか懐かしいかんじ。
これは長江です。
川にはたくさんの船が、大橋にはたくさんの車やトラックが絶えず行き交っていました。
ツアーは11時くらいに始まり、8箇所ほどバスで周って18時に終了しました。
はじめに声をかけられたとき、最後にホテルまで送ってくれるという約束だったのに、ガイドさんに伝わっておらず、結局途中の便利なところで降ろされてしまいました。全員送ったら遅くなるからということでした。さすが中国。
宿泊先は夫子廟にあるユースホステル。
事前に電話予約をしていたので、パスポートを見せて会計を済ませればすぐに入室することができました。わかりにくいですがとても便利なところにあります。
2人部屋で一泊180元。保証金としてデポジット100元が先にかかります。チェックアウトのときに戻ってきます。
シャワーもトイレも部屋にあり、快適でした。
南京には2,3件のユースホステルがありますが、ここが一番にぎわっている場所にあります。(つづく)
上海の日本人留学生:okei
作者:日本Webリポートt&ニュース
更新日:2008年11月12日 12時14分
お茶の間の邪馬台国論(最終回)
それでは最後に「卑弥呼の斎宮があった所」と考える、豊前の宇佐八幡宮についてご紹介し、この稿を締めくくりたいと思います。
ご精読ありがとうございました。
〔 宇佐八幡宮の起源 〕
諸説あって定説はありませんが、奥の院の御許(おもと)山(大元山)の巨石(メンヒル)信仰が始まりで、これが宇佐氏を始めとする周防灘沿岸の豪族連合の祖神、「比咩(ひめ)神」になったという説があります。
比咩神は、天照大神と素戔鳴尊との天の安河原の誓約で、素戔鳴尊の十挙剣(とつかのつるぎ)から生まれた、多紀理媛(たぎりひめ)、多伎都(たきつ)媛、市伎島(いちきじま)媛の三女神のことで、宗像神社や広島の厳島(いつくしま)(安芸の宮島)の祭神でもあります。
恐らく玄界灘から瀬戸内海にかけて勢力を振るった、海人一族の奉戴(ほうたい)する神だったのでしょう。あるいは先に「国生み」のところでふれた、頭に「天の」と冠する、九州周辺の海域に浮かぶ島々は、なべて比咩神を奉戴する海人が住んでいたのかも知れません。
やがて「比咩神」は大陸からの帰化人(秦(はた)氏系の辛島(からしま)氏。後漢書に「女王国の東に秦王国あり」の記事がある。現在でも周防灘沿岸には秦(はた)姓が多い。)の奉ずる「辛国(からくに)神」と融合して「ヤバタの神」になります。
「ヤバタの神」は「八幡」、つまり沢山の軍旗の意で戦の神、あるいは沢山の踏鞴(たたら)の意で製鉄の神として、古来から多くの信仰を集めました。
一説では大和朝廷が成立する以前から、一大宗教王国が存在していたと言います。
さらに応神(おうじん)天皇(誉田別(ほむたわけの)尊。河内の百舌野(もずの)の我国第二の規模を誇る古墳に葬られたと言う)を勧請(かんじょう)して、応神八幡神(後に我国最初の神仏混(こんこう)の本尊である八幡大菩薩になる)とし、AC725年(神亀2年)に現在の亀山(小椋(おぐら)山)に鎮座しました。
その後、母后の神功皇后を合祀し、現在では第一殿が応神天皇、中央の第二殿が比咩神、第三殿が神功皇后となっています。
〔 宇佐八幡の勢威 〕
全国におよそ11万社の神社がありますが、そのうちの35%の4万社が八幡宮で、宇佐八幡宮はその総本社です。
古代には、皇室の祖廟である伊勢神宮と並んで、二所宗廟(にしょそうびょう)と崇(あが)められてきました。
宇佐八幡宮は、とくに朝廷の政に重きをなした存在で、歴代天皇の即位にあたって奉幣(ほうへい)したり、また国が重大問題に直面したときには、上宮の本殿の前の春宮社において獣骨を焼き、外宮前の兆竹(きざしたけ)でつついて生ずるひび割れによって卜占(ぼくせん)(シャーマン)し、その結果を「宇佐使」が八幡神のご託宣として、朝廷に下しておりました。
歴史上有名な、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)が称徳(しょうとく)女帝の皇位を簒奪(さんだつ)しようと企てた事件では、勅使の和気清麻呂(わけのきよまろ)に譲位の不可なる神託を下し、皇室の危機を未然に防ぎました。
また奈良東大寺の大仏建立にあたって、畿内の技術者*では10年経っても工事が進捗せず、頓挫(とんざ)する恐れが出始めたときに、八幡神のご託宣が下り、豊前地方の帰化人集団を総動員して、1年間で完成させました。
この功により、八幡大菩薩は一品(いっぽん)に、比咩神は二品に叙され、さらに宇佐使には天皇と同じく、紫の輿(こし)の使用を許されました。この後、宇佐使がご託宣を奉じて朝廷に到着したときには、文武(もんぶ)百官が土下座をして迎えるようになったということです。
また封戸(ふうこ)1400戸、位田(いでん)140町を賜り、その神領・神田は西日本の各地におよび、今も大貞(おおさだ)(大宇佐田)、神田の地名が残っています。
当時の伊勢神宮の封戸が1000戸、位田が100町であったことを思えば、の威勢のほどが分かります。
このように大和朝廷の成立以前から九州の豊前の地に威を張り、鬼道をもって国政を左右した宇佐八幡宮の正体は、一体何なのでしょう。(完)
*技術者集団 武蔵の国風土記には「用命天皇の頃、関東開発を急ぐために、畿内にいた高麗(こま)人1799人を武蔵の国高麗郡に移した」とあり、そのために畿内の技術者が払底(ふってい)していたと思われます。
松戸:高見航毅
作者:日本Webリポートt&ニュース
更新日:2008年11月9日 14時18分
晩秋のエルムの杜
11月に入りますと札幌の週間天気予報にも雪だるまが登場してきました。
冬の足音が近づいてきました。
植物の世界の冬支度を覗きに、3連休の中日晩秋の北大構内を散策してきました。
< 黄色いトンネル >
植物の冬支度は落葉です。
気温が下がって根から水分を吸い上げる力が弱まりますと、葉も光合成ができなくなり、緑の葉は化学変化を起こして、赤や黄色に変色した後 落葉します。
これによって体のバランスを保ち、余計なエネルギーの消耗を防ぎます。
紅葉とか黄葉は、落葉樹が葉を落とす準備段階といえ、人間はその葉の変化を愛でて楽しんでいます。
北大構内の北13条通りには道路の両側380mにわたって、70本ほどのイチョウの木があります。(写真右)
イチョウ並木といわれ、ポプラ並木と共に北大の代表的な観光ポイントです。
そのイチョウが見事に色づきました。
まるで黄色のトンネルです。
たまたまこの模様は、2日の夜のテレビ全国放送で紹介されていましたので、ご覧になった方は多いかと思います。
11月はじめの3連休は、車の出入りは規制され、行楽客のために歩行者天国となりました。
観光客から親子連れの市民まで大賑わいのイチョウ並木です。
見上げるとイチョウの実がたわわになっています。(写真左)
イチョウの実はぎんなんです。
茶碗蒸しにぽつんと入っているグリーンの実です。
居酒屋に行きますと、3個ほど刺した串刺しのぎんなんが、結構高値で客に出されています。
たわわに実ったぎんなんを見て、同行した婦人が「誰か木を揺すって!」
風が吹いた日の早朝に来なければ、ぎんなんはそう簡単には拾えないそうです。
< 赤い建物 >
古めかしい旧理学部の建物が赤くなっていました。(写真右)
北大構内では最も古い建物のひとつで、現在博物館になっています。
ツタが下から上に伸びてびっしり付着しており、見事な紅葉となっていました。
♪ つたの絡まるチャペルで、祈りをささげた日 ♪
建物に絡まるツタは、夏は涼しそうに見え、秋は夕日に映えてエキゾチックです。
建物を覆っているツタは、ナツヅタといわれるブドウ科のつる性の植物で、いずれ落葉します。
これに対しフユヅタというつる性の植物があります。
一般的にキヅタと言われていますが、冬でも常緑のことから落葉するナツヅタに対して、フユヅタとも言われています。
広葉樹の色が変わって落葉する時期になりますと、フユヅタの緑が目立ってきます。
< 北国のお父さん >
農学部のほうに足を向けますと、ハルニレの木ばかりという広場にでます。
ハルニレはここばかりではありません。
北大構内のあちこちでハルニレが見受けられます。
ハルニレは英語でエルムといいます。
北大が「エルムの杜」といわれる所以です。
ハルニレはすっかり葉を落としていました。(写真左)
早や冬の装いです。
ハルニレは花も葉も地味で、おっとりと構えている感じの大木です。
けどどういうわけか、ハルニレは洋の東西でとても尊敬されている木です。
アイヌ叙事詩ユーカラには美しい女神として登場し、人間の子アイヌラックルを産みます。
アイヌラックルの父は雷神、母はハルニレです。
ハルニレの木の上に雷が落ちて、人間は火を使うのを覚えたと言われるのがアイヌ神話です。
実際ハルニレは火をよく起こします。
というのもハルニレは老木になりますと、空洞(ほら)ができます。
よくフクロウがねぐらにしている空洞です。(写真右6.12)
落雷すると空洞に堆積した落ち葉などの木屑が着火して、火を得やすいことから、ヨーロッパでも重要な木として位置づけられています。
ハルニレは水気の多いところに生えます。
開拓に入った人はハルニレの生えるところを開墾しました。
ハルニレは肥沃な土地であるというバロメータであったわけです。
本国を追われてアメリカ東部にたどり着いたイギリスの新教徒は、インディアンからエルムを土地条件の指標にするよう教えられたそうです。
肥沃で耕作に適し、水も得られるためです。
札幌は豊平川の扇状地の上にできた町です。
川の水は扇状地ではいったん地下を流れますが、扇の先端にきますと、湧き水となって地上に出てきます。
アイヌ語でメムといい、ちょうど北大や道庁前庭、植物園などいまの札幌中心部がメムがあるところでした。
この周辺にハルニレはよく生えました。
このためハルニレは札幌を代表する木といわれています。
今は高層ビルが林立して水脈は寸断され、メムは消えてしまいした。
池の水はすべてポンプアップです。
ハルニレの花言葉は「信頼」です。
とても地味な木ですが、どっしりした頼りになる北国のお父さんという木です。
葉はすっかり落ちても、存在感のある広葉樹です。
< かわいいバンカラ学生 >
ハルニレの街路樹を歩いていますと、面白い光景にであいました。
赤ふんどし姿の学生さんです。
構内にある学生寮・恵迪寮(けいてき)の寮生です。
現在寮祭をやっており、ぜひ来てくださいという勧誘の赤ふん学生でした。
チラシを受け取るご婦人も、目のやり場がないようですが、笑顔で受け取り、寒くないのかと気遣う観光客もいました。
恵迪寮といいますと
♪ 都ぞ弥生の雲紫に 花の香漂う宴遊(うたげ)の筵(むしろ)・・・♪
明治以来寮生が高言放歌した寮歌の生まれたところです。
昔の恵迪寮は、構内にはもうありません。
札幌近郊の北海道開拓の村に移設されて、歴史的建造物として保存されています。(写真右8.5)
代わって北大構内には近代的な寮が建っています。
北大の寮生というと、バンカラ学生のイメージですが、赤フンの二人の学生はまだあどけなさの残るかわいい学生でした。
聞くと1年生だそうで、さぞ楽しい寮生活を送っていることでしょう。
< 札幌農学校3賢人 >
工学部の入り口前の広場で、珍しい植物が観察できました。
クロビイタヤです。(写真下)
北大植物園の初代園長・宮部金吾博士が日高地方で見つけたことから、別名ミヤベイタヤといわれています。
宮部博士は優秀な学生が輩出した札幌農学校2期生で、内村鑑三・ 新渡戸稲造とともに農学校の3賢人と言われています。
ほかの二人が東京へ世界へと活躍の場を求めたのに対し、宮部博士はクラーク先生が提唱した植物園の初代園長となり、27年間も園長を務めました。
札幌名誉市民の第一号です。
ミヤベイタヤは、葉の形が一見カナダの国旗のサトウカエデに似ています。
絶滅危惧種で、工学部の著名な教授の退官記念に植樹されたという立て札が立っていました。
< 冬 間近か >
広い北大構内は自然が一杯です。
すでに葉が落ちたカツラの木には種子が一杯ついていました。(写真右)
その形からバナナと呼んでいます。
イチョウの実のぎんなんは人間の好物ですが、カツラの実のバナナは鳥の大好物です。
もうちょっとやわらかくなると、鳥がわんさと訪れて食べつくしてしまいます。
近くの池には、カモがいつもより多く羽根を休めていました。
晩秋の色濃いエルムの杜でした。
見上げると札幌郊外の手稲山(1024m)の頂上部分がすでに白くなっています。
まもなく里にも白いものがちらつくことでしょう。
去年の札幌の初雪は11月2日でした。
札幌:望田武司
作者:日本Webリポートt&ニュース
更新日:2008年11月5日 15時26分
上海のモデル撮影会
時計台 130年(下)
< クラーク博士 >
札幌農学校というと、当たり前のことだが多くの観光客が農業の専門学校だという先入観が強いことに気づかされる。
確かに「地を拓き農を勧むるは産業の本源なり」という時代なので農業を教え、キュウリ・ナス・タマネギの野菜からリンゴ・ブドウの果実、更に酪農を持ち込み、コメとダイコンしかなかった当時の日本の農業を、がらりと変える先駆的役割を担った学校だった。
右の写真は日本で初の洋式農業建築として、クラーク博士が作った第二農場でモデルバーンと呼ばれ、模範家畜房や穀物庫などの一連の倉庫や小屋は、重要文化財に指定されている。(06.9 北大構内)
ただクラーク博士は単に農業技術だけでなく、生徒には高いヒューマニズム精神に満ちた、ストイックで自由な徳育を教えた。
クラーク博士(写真左:北大博物館)は農学校の開校式で、将来を嘱望されている学生に対し、日本のこの種の行事では考えられない「欲望と情欲を制御するよう」 演説を行っているところが面白い。
こうした教育を受けて、内村鑑三(思想家)新渡戸稲造(教育者)広井勇(土木工学の先駆者)など農業と直接関係のない人材が育った。
観光客は時計台に展示されているさまざまな史料をみて驚く。
授業はすべて英語で行われ、生徒たちは寄宿舎に戻ってメモを持ち寄ってはノートを作り清書した。
時計台には新渡戸稲造の達筆な英文ノートが展示されている。(写真下左)
新渡戸は5000円札から姿を消して影が薄くなったが、北大構内や時計台を歩くと存在感がある。
新渡戸も、新渡戸を慕って札幌農学校に入った有島武郎も卒業後、母校で教鞭にたち、時計台のホールで講演している。

クラーク博士は学生に心の道徳を育むために聖書を用いたが、帰国の際「イエスに信ずる者の誓約」を残した。
この誓約にはクラーク博士に感化された内村や新渡戸、広井など一期生と二期生の熱心な信仰者が署名した。
そのサイン入りの誓約書も時計台に展示されている。(写真上右)
それにしてもつい数年まで邪教とされたキリスト教を黙認して、すべてを任せた開拓使の長官黒田清隆の度量の大きさには驚く。
黒田は教頭として迎えたクラーク博士に対し「学生には最高の徳育を教えてほしい」と要請すると、クラーク博士は即座に「キリスト教こそ最高の徳育だ」と答えたという。
< 札幌農学校の卒業生 >
クラーク博士は、東京で自ら面接して合格と認めた11人の一期生とともに船で札幌に向かうが、生徒の品性のなさに顔をしかめたという。
甲板の上で遠慮なく放尿し、鼻をかむことはせずどてらの裾でぬぐい、裾はてかてかに光っていた。
その生徒たちを相手に授業を始めると、水が浸みるがごとくどんどん知識を吸収していく生徒の優秀さに驚き、自ら学長をしていたマサチュセッツ農科大学の学生と変わらないと述べている。
青春時代 演武場で文武に励み、クラーク精神を体一杯に浸み込ませて巣立った札幌農学校の卒業生は、全国に散らばって旧制中学の校長などになり、多くの子弟を育てた。
二期生の新渡戸稲造・第一高等学校校長からは 南原繁が、三期生の鶴崎久米一・神戸一中(現神戸高校)校長からは矢内原忠雄の、いずれも リベラルな戦後の東大総長が薫陶を受け、一期生の大島正健・山梨中学(現甲府第一高校)校長の教え子に石橋湛山がいた。
とくに悪行がたたって2年も落第した後の首相、石橋湛山は大島校長からクラーク博士の話を聞き「一生を支配する影響を受けた」と書いている。
(写真左のこの他の卒業生佐藤昌介は、北海道 帝国大学初代総長、町村金弥は町村牧場の創設 者で、町村信孝前官房長官の祖父)
時計台二階のホールには、札幌農学校時代の長いすと机が再現され、当時のアカデミックな雰囲気を堪能できるよう配慮されている。
向学心に燃えた子供たちと、明治黎明期の高等教育の様子が浮かんでくる。
< 文学・歌の世界の時計台 >
時計台の存在は全国に散らばった卒業生だけのものではない。
なによりも足元の道産子に対しても大きな影響を与えた。
札幌出身の作家森田たまは、随筆「吹雪の味」のなかで、 「吹雪で一切の交通が途絶したとき、私たちを支えてくれるのは、時計台の時を告げる鐘の音であった。ふだんから澄んで清らかなあの鐘の音が、吹雪の日は一そう冴えて、耳といふより心にひびいてきた。町ぢゅうのみんながいまこの音を聞いているのだと思うことが、唯一のつながりであった」 と書いている。
時計台の一角に時計台を歌った歌謡曲の紹介コーナーがある。(写真右)
札幌ブルース(青江美奈)、恋の町札幌(石原裕次郎)、札幌ふたりづれ(都はるみ)、ああ北海道には雪が降る(鶴岡雅義と東京ロマンチカ)などなどその数の多さに驚く。
これらの歌の中に北海道の風土や、札幌の街をイメージさせる代表的な建物として、時計台が登場する。
この中でも時計台を世に紹介し、多くの人に感銘を与えた歌はこの歌において他にないであろう。
♪ 時計台の 鐘が鳴る 大空遠く ほのぼのと
静かに夜は 明けて来た ポプラの梢に 日は照り出して
きれいな朝に なりました 時計台の 鐘が鳴る ♪
名曲「時計台の鐘」は、大正12年バイオリン演奏家高階哲夫が26歳のとき作詞作曲したものである。
前年の札幌での演奏会のとき酷評された高階は、後日開催の特別演奏会で大成功を収めた。
その夜、演奏会成功の喜びを胸に札幌の街を一人歩き、時計台の鐘を聞きつつ帰路についた。
「時計台の鐘」はこの時の感動と、彼が触れた札幌の広大な自然への感動をもとに作られたといわれている。
< 高層ビルより高い時計台 >
時計台は一見近代的な超高層ビルの中に埋没しようとしている。
しかし建設以来130年の歳月を経た時計台には、超高層ビルよりもはるかに濃密な歴史とロマンを持って燦然と輝いている。
札幌市の市民憲章冒頭には「わたしたちは時計台の鐘がなる札幌の市民です」と書かれていた。
まもなく木枯らしの吹く札幌である。
時計台の鐘は木枯らしにのって、厳しい冬を耐える力と安らぎを市民に与えてくれることだろう。
札幌:望田武司
作者:日本Webリポートt&ニュース
更新日:2008年11月2日 15時59分
マルチ商法・ネットワークビジネスはなぜいけないか [消費者事件] [編集]
「民主・前田議員が離党・不出馬の意向…マルチ業者問題 」 のニュース
http://www.so-net.ne.jp/news/cgi-bin/article.cgi?gid=pol&aid=20081016-570-OYT1T00023
ちょっと検索した中で分かりやすかったサイトを参考までに挙げておきます。
福岡県消費生活センター
http://www.shouhiseikatsu.pref.fukuoka.lg.jp/seikatsu_info/jirei/2007/j20070200_12.html
国民生活センター
http://www.kokusen.go.jp/news/data/n-20061108_2.html
私も、随分前のことになりますが、ちょっと知り合い程度の若い人から、突然150万円貸してと言われ、お金は「あげても貸さない」主義の私からすれば問答無用に断るつもりでしたが、興味でなぜか聞いてみたら「ネットワークビジネスをしたい。年間何千万も儲けている人がいる。1年で利息も付けて返すから。」と言うことで、即刻「借金して、そんなことするもんじゃないよ。」と断ったことがありました。
こういうの随分よくある話です。
マルチ商法。ネットワークビジネス等の呼び名の場合もありますが大体同じです。
多くは健康食品、化粧品。
顧客として、商品を買うだけなら問題ありません。もちろん。
さて、問題は販売員になった場合。
販売員は、誰か別の販売員(親みたいなもの)に勧誘されて販売員になります。そして、その場合、「親販売員」には会社から報酬(お金)が入ります。
販売員になった場合に、大抵は、販売員である資格を得るためにお金を払う必要があります。問題は、その最初に払ったお金の元が取れるかどうか、です。
販売員になって、商品を売るだけで、最初に払ったお金の元が取れる場合はさして問題ありません。
でも、実際は、私が借金を申し込まれた例のごとく、150万とか、それほどでなくても20万とか30万というような金額を初期に払わなければならないケースが多いのです。
その場合、販売員として商品そのものをコツコツ売ってそのマージンだけでは「ン十万」の元を取るのは難しいわけです。
販売員といっても、もとはただの素人で、店舗もなければ、家族・友人・知人に商品を売ることしかできないのですから、範囲は知れています。
ということで「ン十万」を回収しようとすれば、商品を売るだけではダメで、新たな「子販売員」を誘い込んで、それによって会社から報酬を得なければ、普通は無理です。
そう言う仕組みだからこそ、
会社-「ご先祖」販売員-「祖父母」販売員-「親」販売員-販売員(あなた)-「子」販売員-「孫」 -「ひ孫」-
となっていかなければ元が取れないという仕組みなのです。
ということで、こういうネットワークが築かれてゆく、自然と…
しかし、ここでいう「自然と」は「やむにやまれず」なわけです。
それから、このネットワークの中にいる人物が、新たな販売員を苦もなく開拓できる「押しの強い人物」ばかりだったら、どんどん本当にどこまでも続いていくわけです。
そして、「押しの強い人物」は確かにその「押しの強さ」をフルに発揮したら、稼げちゃいます。
でも!!
誘われた人はどうなるの?「押しの強い人」に押し負ける人は、多くは「押しの弱い」「NOと言えない」人じゃないでしょうか?
必然!このネットワークの中に、「押しの弱い」「NOと言えない」「気の弱い」けど誘われちゃった、それで、「ン十万」出す羽目になった可哀想な人が含まれてくるのです。
そこで、その可哀想なおとなしい人は、「ン十万」の借金を抱えることになったりするわけです。
つまり、上記のネットワーク「家系図」は、大抵は「おとなしい人」のところでとぎれちゃいます。そして、そこには借金が残ります。
そして、借金の残る「おとなしい人」の「親販売員」は非常に罪作りなことをやってしまった、ということになるのです。
この場合「親販売員」が誘ったのが悪い、といえばそうなのですが、私はそれを本質だとは思いません。
「親販売員」だって、最初に誰かに誘われ、「ン十万」投資したわけですからそれを回収せざるを得ないから、そういう仕組みだから仕方なく、誘えそうな「子」を誘って販売員にしたのですから。
ということで、何が悪いか。
ネットワークビジネスやっている人、誘った人ではなくて、「システム」そのものが必ず破綻するシステムだから悪いのです。
いずれネットワークのどっかで誰かが、嫌々勧誘され、大損する、借金を抱える等の結末を迎えます。
前田議員等は、「マルチ商法・ネットワークビジネスの健全な在り方をめざす」等と釈明していました。
私も全てが全てと断定できるほどの資料を持っていませんが、上で説明したとおり、システムそのものがいずれ無理をきたすものである以上、「健全な在り方のマルチ・ネットワークビジネス」というのは極めて難しいと思います。
できるとしたら、
「販売員」になっても次の「販売員」を誘えなくても、自分で使う商品を買う、プラスアルファで誰かに販売するというだけで十分元が取れる
という負担の軽い仕組みの場合だけです。ですが、そういうふうに負担が少ないとなると、「次の勧誘員を誘う」モチベーションがなくなるので、その人のところで止まってしまうので「ネットワーク」が作られなくなりますから、逆に、「ネットワークビジネス」というモデルが成立しなくなってしまいます。
ということで、読者の皆様は、ぜひともマルチ・ネットワークビジネスに手を出さないようにしてください。
1 あなたが「押しの強い人物」の場合
あなたは儲かるかも知れませんが、きっと誰か「押しの弱い」人に迷惑をかけることになります。それが友人であったりするので、お金より大事なもの、人間関係・友人関係等を損ないます。
2 あなたが「押しの弱い人物」の場合
間違いなく元が取れません。
もし不本意にも手を出してしまった、どうしよう、と言う場合、出来るだけ早めに、
弁護士会 http://www.hyogoben.or.jp/(兵庫)など
県や市の消費生活センター http://www.ddart.co.jp/shouhisha/hyougo.html
にご連絡されて、相談してみて下さい。
マルチ・ネットワークビジネス等はほとんどが「特定商取引法」という法律の「連鎖販売取引」に該当し、クーリングオフ等の規定があります。そのほか「特定商取引法」の規定によって、嫌々誘われた人を救済出来る場合があります。
神戸:村上英樹 弁護士村上英樹のブログ
作者:日本Webリポートt&ニュース
更新日:2008年10月30日 15時55分
上海のビル群
時計台 130年(上)
札幌のシンボルは?と尋ねられると、「時計台」と答える市民が圧倒的に多いという。
それくらい札幌の時計台は市民に浸透し親しまれている。
その札幌時計台が今年10月で創立130年を迎えた。
記念行事が行われ、正確に時を刻んで毎正時には鐘がなる時計を、長年保守点検してきた時計職人が札幌市長から感謝状が贈られた。
時計台には雪の降る寒いときも、陽射しの強い暑いときも、1年中朝から夕まで絶えることなく観光客が訪れている。
こんなに多くの観光客が訪れる観光ポイントは札幌には他にない。
そして撮影ポイントに立って「はい、チーズ」 記念写真をとって、大半の人がさっと消えてしまう。
「○○へ行ってきました」というおみやげ饅頭を購入する感覚なのだろうか。
200円の入館料がもったいないというわけでもないだろうが、中に入って重要文化財としての時計台を味わおうという人はそれほど多くはない。(写真:08.10 現在の時計台)
観光ボランティアとしては、時計台は重要な案内ポイントである。
観光客の求めに応じて案内もするが、求めに応じてシャッターマンにもなりきっている。
けどちょっと寂しい、もったいないなという気持ちもする。
< 見栄えのしない時計台 >
「日本三大がっかり名所」という言葉があるそうだ。
高知のはりまや橋・沖縄の守礼門・もうひとつが札幌の時計台だそうだ。
たしかに時計台は金閣寺や姫路城のような豪華なものではない。
むしろ板葺きの建物で、その上に大時計がのっかかっているという質素で 見栄えのしない建築物だ。
おまけに周囲は近代的な高層ビルに囲まれて、見方によっては肩身の狭い 古びた建物という感じがしないでもない。 (写真上:04.12 冬の時計台)
もともと時計台は、時計台として作られたのではない。
札幌農学校の演武場として作られた。
華やかな演舞場ではない。地味な演武場だ。
< ミリタリーホール >
明治8年 いまの北海道大学の前身・札幌農学校が開校すると、教頭として来日したクラーク博士は演武場の必要性を語る。
当時アメリカは奴隷解放などをめぐって国を二分した南北戦争が終わったばかりで、クラーク博士も北軍の戦士として戦った。
勝利したリンカーン大統領は、今後国有地を払い下げて学校を建てる際には、農工系と兵学の勉強をカリキュラムに入れることを条件に付けた。
モリル法といわれている。
南北戦争の直後でもあり、学生を予備の将校として養成することを想定した法律だ。
以降開拓進むアメリカ中西部の各州に作られた大学には演武場、ミリタリーホールが併設された。
日本でも明治7年の佐賀の乱から神風連の乱、萩の乱、そして西南戦争と士族の反乱が相次いだ時期でもあった。
クラーク博士は「高等教育を受ける者でも一たび有事になれば戦場に出向く」というアメリカの制度を日本に導入したもので、その証が演武場だったのだ。
演武場は二代目教頭ホイーラーによって具体化され、明治11年、いまからちょうど130年前に建てられた。
時計台二階のホール正面には演武場の看板が掲げられ、左に「従一位具視」という署名が入っている。(写真・左)、
明治新政府では右大臣を務めた岩倉具視直筆の書であることがわかる。
ホールには現在は長椅子がおかれ、講演や時計台コンサートが開かれている。
< 開拓使のシンボルマーク >
時計台の正面に☆印は何のマークですか?
よく観光客に訊かれる。(写真下:06.6 ライラックの咲くころの時計台)
これは五稜星と言い、開拓使のシンボルマークで北極星をかたどっている。
このシンボルマークは北海道庁旧本庁舎(通称赤レンガ庁舎)、明治天皇行幸のときの宿泊所として建てられた豊平館、それに時計台の3箇所(いずれも重要文化財)など、ごくわずかな公共物に掲げられている。
唯一例外としてサッポロビールの工場にもついている。
日本で初めて作られた国策のビール工場で、明治中期に民間に払い下げられたとき、シンボルマークも一緒に払い下げを受け、以降今日まで商標として使われている。
< 石ころで動いている時計台 >
演武場の屋上に時計を設置するよう指示したのは、当時の開拓使の長官だった黒田清隆といわれ、演武場ができて3年後の明治14年、いまの計台ができあがった。
時を告げる鐘楼は東京赤羽の国の工場で製造される。
見学にきた婦人が「この鐘は北の地札幌で勉強して、将来日本を背負う若者のために鳴らされる」という説明を聞いて、突然 指にはめていた高価な指輪を、溶鉱炉の中に投げ込んだという逸話が残されている。
建設当時は、時計台よりも高い建物はなかった石狩原野に、鐘の音は鳴り響いた。
記録によると、風向きによっては時計台から2.5キロの地点でも聞こえたという。
ゴ~ン ゴ~ン
開拓民はこの鐘の音を聞いて空腹の音と共鳴させ、弁当を広げたことだろう。
札幌時計台は、おもりの力で時計を動かす機械時計である。
そのおもりは、札幌中心部を流れる豊平川の河原の石が使われている。
左の写真は、時計台の中に収められている機械時計と同型で、アメリカから当時としては最新のものを持ち込み、右側の木箱におもりの石が入っている。
機械式時計は明治時代が全盛であったが、その後電気時計から水晶時計へとかわって、現在では廃れているという。
現存している機械式時計は、高知県安芸市野良時計・山形県旧県庁舎時計塔・立教大学モリス館時計塔と、札幌市時計台の4ヶ所だけだという。
札幌の時計台がもっとも古く、石ころのおもりで1世紀以上も正確に時を刻んでいる。(つづく)
札幌:望田武司
作者:日本Webリポートt&ニュース
更新日:2008年10月30日 10時25分
上海蟹
上海蟹の季節です。
南京東路駅から徒歩5分の王宝和大酒店へ行ってきました。
ゆでた蟹は1杯300元(4500円程度)でした。つけダレと手洗い用のお茶も一緒に出てきました。
服務員に何も言わなければ自分で蟹をむくことになりますが、食べ方がわからないと言うと、日本語の説明書を見せられ、服務員が丁寧に剥いてくれました。服務員の人は多少日本語が話せます。メニューも日本語が書かれているのでわかりやすいです。
味はというと…
蟹味噌が甘~い
小さいので身は少なめですが、こんなに濃厚な蟹味噌を食べたのは初めてでした。満足。
こちらは蟹入り小龍包。
肉汁の量が半端なく多い一個一個が少し大きめなので嬉しい。
小龍包は食べ過ぎて以来避けていましたが、これは本当においしい
右上に少し見えているのは蟹味噌のあんかけ豆腐です。こちらもおいしかったです。
蟹味噌炒め↓、蟹味噌チャーハン、蟹とチンゲン菜の炒めものも本当においしかったです。どれもお勧め
ちなみに、蟹とアワビのスープ、酔っ払い蟹はイマイチでした。
でもこれだけ蟹を味わうことができて大満足。私は世界一蟹が好きなので幸せでした
ちなみにチャイナドレスの女の子たちによる中国音楽の生演奏も聞くことができます。
事前に電話予約をしていったので、よい席で生演奏を見ることができました。
番号→02153965000
予約は朝9時から受け付けていますが、夜は受け付けていないみたいです。
まずホテル予約なのかレストラン予約なのか聞かれます。
それから時間と名前、携帯電話の番号を伝えれば予約完了。
英語と中国語が通じます。
上海に来たからには蟹を食べないと
上海の日本人留学生:okei
作者:日本Webリポートt&ニュース
更新日:2008年10月29日 10時56分
お茶の間の邪馬台国論(36)
つぎに狗奴韓国は、従来「倭の北岸」の意味を「倭国の北辺の岸」という意味に解し、あたかも倭の領土のように思われてきましたが、確かに倭人も住んではいたものの、この頃の中国や韓国は「倭の北岸と海を挟んで相対する加耶(かや)という地域」という認識をしていて、必ずしも倭国の統治権が存在するという観念はなかったのではないでしょうか。後に加耶に置かれていた任那(みなま)日本府は、日本の大陸外交の足がかり的な出先機関だったのではないかと思います。
対馬国から不弥国まではフェニキア的海洋国家で、玄界灘に臨んで大陸に往来し、また時によって、人によっては加耶地方に住み着いて、盛んに交易を行う、女王国とは同盟関係にあった国々だと思います。
もとは、それぞれ王を戴いた独自の政権でしたが、大陸との交易が膨張し、また大陸からの人口流入が増加するなどで、互いの関係がバランスを失し、利害の衝突(倭国大乱)が頻発(ひんぱつ)したため、優れた巫女と評判の、卑弥呼のご託宣を奉じて政を行うようになったのだと思います。
倭人伝に、とくに伊都国にのみ「世々王あり」と記されたのは、伊奴国王の先祖が後漢の光武(こうぶ)帝から金印(志賀島出土)を授与されたという記憶が、当時の魏の関係者にあったからでしょう。
もともと金印は、他の例を見ても「漢の○王」にしか与えられない印で、「漢の倭国の奴の王」のような陪臣(ばいしん)諸侯には、銀印か銅印が与えられると、詳細なデータをもとに展開した説論があります。
また金印の「委」の字は「倭」に似ていますが、決して「わ」と読ませた例はなく、「い」としか読めないという論もありますし、逆に中国の金石文では、良く「へん・つくり」を省略するという反論もありますが、私は前記の論を支持したいと思います。従って、志賀島の金印は「倭の委奴国(伊那国)王」と読むべきであるとおもいます。
そして邪馬台国は、豊国主尊以来の一族が徐々に周辺を侵し、3世紀の半ばには臨海部を除く、北部九州の大半を版図(はんと)としていました。本家は豊国主の嫡流(ちゃくりゅう)(豊の君=男弟)が行橋市にいて、卑弥呼は宇佐を斎宮(いつきのみや)としていたのです。
宇佐は斎宮の所在地でしたから、近辺に大集落と言えるほどのものはありませんでした。宇佐氏が卑弥呼のご託宣を豊の君へ伝える役割でした。
その他の領国はそれぞれ分割して、卑弥呼の頃の首長はつぎのようになっていたのではないかと思います。
そして狗奴国との終戦後、卑弥弓呼との和解がなって、後顧(こうこ)の憂(うれ)いがなくなり、国力も充実しましたので、かねてから懸案の東征に踏み切ったのです。
経済と人口の膨張とでエネルギーが充満し、周辺の後進地域の併呑戦争に駆り立てたのです。
五瀬命 - 八女地方を統治。筑紫の君。 東征のときの最初の司令官でしたが、激戦中に陣没。
稲飯命 - 遠賀川下流地方を統治。海人族の長である宗像の君。難波潟の海戦の指揮官として奮戦したが陣没。紀には難波の海が時化(しけ) て戦況が覚束(おぼつか)ないので、「海神の娘を母と叔母にもつ我々を、海 はどうしてこのような迎え方をするのか」と叫んで入水したことになっ ているのです。
三毛入野命- 豊前地方を統治。豊の君の名代。豊前市の海辺の日豊線JR駅に、三毛門(みけかど)(三毛地方の入口の意?)の地名があります。紀の本文には三男とされていますが、別書には末弟としたものもあり名前に「稚(わか)」が冠されています。初陣の少年将軍を彷彿(ほうふつ)とさせますが陣没したとの書もあります。そうだとすると、4人の将軍のうち3人までを失ったわけですから、東征戦は苛烈を極めたものだったのです。
神日本磐余彦尊-甘木地方を統治。東征のときに、五瀬命や稲飯命および三毛入野命の戦死後、司令官として全軍を率い、ついに大和地方の平定に成功した。
神日本磐余彦尊は、粗末な武器ながら熟知した地勢を利してゲリラ戦を挑む、長脛(ながすね)彦の軍を遂に破り、大和の纏向(まきむく)(飛鳥地方)に本拠を据えて、大和朝廷の基礎固めを始めたのです。時あたかも3世紀の終末でした。その後の大和勢力の急伸に伴い、本家の九州勢力と齟齬することが多くなり、これが日本武(やまとたける)尊の征服戦や景行天皇の土蜘蛛(つちぐも)征伐、筑紫の磐井(いわい)の反乱などに繋がっていったのではないかと思います。
また九州における神日本磐余彦の領国は甘木市周辺であったため、大和の地名に移植することが多かったのではないかと思います。
* 神護石 御所谷一帯の峰々を囲むように、数kmにわたって1m角程の列石が連なっています。同様の遺跡は、北部九州から瀬戸内海沿岸にかけて、数多く見られますが、当初は大和の三輪山の環状列石と同じく、神域を画すものと考えられ、神護石と命名されました。しかし、その後の研究により、朝鮮式の古代の山城の遺構で、土塁の基礎部分ということが判りました。また作られた時期が、白村江(はくすきのえ)において、日本と百済(くだら)の連合軍が、唐と新羅(しらぎ)の連合軍に大敗した直後と推定されるところから、その後の唐・新羅軍進駐の防ぎとして作られたと考えられています。(以下、次号に続く)
松戸:高見航毅
作者:日本Webリポートt&ニュース
更新日:2008年10月26日 14時38分
【ハケンという蟻地獄】⑯グッドウィル廃業で新たな混乱?
違法行為を繰り返した日雇い派遣のグッドウィルが廃業したが、もちろんこれで派遣から違法労働が一掃されたわけではない。筆者が早朝、JR西船橋駅周辺で観察していると、当日になって業務内容を初めて知らされるとか、呼び集められたものの必要人数が余って仕事にあぶれるなど、相変わらずの派遣労働者踏みつけの実態が横行していた。
二重派遣など違法操業を繰り返していた日雇い派遣会社の最大手、グッドウィル(GW)が廃業したことは、新聞やテレビでも大きく報道された。「これで違法な働かされ方はなくなるだろう」と溜飲を下げた読者も少なくないのではないだろうか。
ところが実情はその逆で、違法な派遣労働が陰で横行しているのではないかとの懸念が広がっている。理由はこうだ――。
GWが操業していた頃は、派遣労働者のユニオンが厚労省に違法状態を詳らかに指摘し、改善を求めていた。そこでは「二重派遣」をはじめ「ピンハネ」「賃金不払い」「失業保険への未加入」など、あらゆる違法操業が明るみに出た。国会議員も立会いメディアも取り上げたため、GWを通して業界の違法行為が監視、指導されるような状態になっていた。ところが、GWが廃業したことで、監視対象がかすんでしまったのだ。派遣業界全体への指導が前にも増して手ぬるくなった。

バスに乗り込む派遣労働者(JR西船橋駅そばで筆者撮影)
業務内容知らされず倉庫で重労働
毎朝7時~8時。JR・東京メトロ西船橋駅そばでは、派遣労働者を乗せるバスが頻繁に発着する。社員と一緒に運ぶバスもあれば、派遣労働者だけの車両もある。大型もあれば小型もある。筆者は九州の地方都市出身だが、九州のバスターミナルよりもバスが多いのに驚いた。
バスの行き先は倉庫だ。骨のきしむような重労働が待っている。時給800円。かつては派遣会社から「軽作業ですよ」と言われて来た労働者もいた。
派遣労働者が集合してから実際に働き始めるまでは2時間前後かかるのだが、その間は無給だ。バスを待つ派遣労働者の長い列が何本もできた。ある男性(30代前半)に仕事の内容を聞くと、「どうして答えなきゃいけないの?」。この男性に限らず、まともに答えてくれる派遣労働者はいなかった。殺伐とした雰囲気がバス待ちの列全体に漂っていた。
ある中堅派遣会社の集合時刻は8時だ。8時を少し過ぎると、スーツを着た派遣会社の社員が来て、点呼を取り始めた。
合間を縫って「(どんな仕事をするのか)業務内容の開示はしているのか?」と社員に聞いた。「携帯メールなどで知らせてはいるが、連絡がつかない人(派遣労働者)もいる。その場合、どうしても当日になる」という答えだった。
厚労省の指導では「業務内容は前日までに開示しなければならない」。派遣会社の社員は厚労省の指導に違反したことを認めたのだった。日雇い派遣というビジネスモデル自体が違法性の濃いことを示すものだ。
派遣労働者に集合をかけてバスで現場に連れていく手法は「究極の需給調整」と言われる。例を示そう――。
ある倉庫で明日は200人の人手を要するとする。派遣会社は登録している労働者に携帯メールなどで募るのだが、欠席者を見込んで220~230人集める。
ところが欠席者が予想以上に少なかったりすると、仕事にありつけない労働者が出る。あぶれるのだ。朝早くから集合場所に行ったにもかかわらずだ。GWで働いていた男性は、この目に遭った。集合場所までの交通費だけは出たそうだ。
西船橋駅前でもあぶれた派遣労働者がいた。清涼飲料水の自販機に背中をつけてへたり込みながら、コンビニのサンドイッチを缶コーヒーで流し込んでいた。
「●●社の派遣の方ですか?」と筆者はおそるおそる尋ねた。「そうじゃねえよ」と答えた目は殺気さえ帯びていた。
金融不安で企業倒産が相次いでいる。今後、失業者が大量に発生する。社会状況は、派遣労働者と派遣会社が増える構図にある。厚労省は本腰を入れて監督・指導を強化する必要がある。
東京:田中龍作
この記事の初出は日本インターネット新聞(JANJAN)です
作者:日本Webリポートt&ニュース
更新日:2008年10月26日 13時58分
お茶の間の邪馬台国論(35)
〔 私の独り言 〕
幕を下ろしたうえで、気楽な独り言に今少しお付き合いください。
北部九州のどこにあったのか…。
前出の北部九州の有力な比定地で、弥生時代および、それに続く古墳時代の遺跡が多い地域といえば、甘木市、八女市、遠賀川流域、行橋市などがあげられます。
その中で、甘木市には、記紀の高天原に出てくる地名と、良く似た地名が多く残っています。たとえば、甘木=天(あめ)の城(き)、夜須川=天の安川、香(かぐ)山=天の香具山などがあります。おまけに、大和の飛鳥地方と良く似た地名が、飛鳥と相似形に存在することが、安本美典氏等により指摘されています。
ここから東征した部族が、甘木の地形に似た大和のあちこちに、故郷を懐かしんで同じ名前を付けたからではないか…。
全国に似た地名は結構多いため、単純に地名の類似だけでは考証するのは危険ですがなんとも魅力的な場所です。
東征軍の大将神武天皇の、九州における領地ではなかったかと推量しています。
また遠賀川の流域では、上流の桂川(けいせん)町周辺には、弥生~古墳時代の遺跡が密集し、とくに王塚装飾古墳は有名です。
私は飯塚市を含むこのあたり一帯を投馬国と推定しています。
下流の「岡の水門」に比定される芦屋町には、最古の稲作の遺構があり、また宗像の君徳善(とくぜん)の墓という、宮地嶽古墳のある津屋崎にも近く、一帯は宗像氏(海人(あま)族)の勢力圏であったろうと思います。
従って、豊玉姫、玉依姫の実家である海神(わだつみ)の国はここで、不弥国ではなかろうかと推測しています。
八女市は筑後川の流域の肥沃な平野で、古代の遺跡が密集している地域です。
とくに筑紫の君磐井(いわい)の墓とされる古墳や、石陣山(せきじんやま)古墳など、九州最大級の前方後円墳が多数存在しています。
代々筑紫の君がいたところと言われています。
行橋市は近年、市内下稗田(しもひえだ)から大規模な弥生集落遺跡が発掘され、弥生のクニの七つ道具が出揃いました。
我国最古級の石塚山古墳(京都市苅田町)や、宮内庁所管になる重要古墳を始めとする古墳群、海彦山彦伝承地の蓑(みの)島、豊前国分寺、御所谷神護石(こうごせき)*など、古代から連綿と大きな権力が存在したことが窺われます。
代々豊の君がいたところと言われています。
ちなみに、市政がしかれる以前は、京都郡(みやこぐん)に属していました。
宇佐八幡宮は、全国で4万余社を数える八幡宮の総本社です。
鎮座する亀山は、卑弥呼の墓ではないかという説もある古式の前方後円墳で、近くの豊後風土記の丘には、これも我国最古級の赤塚古墳を始めとする古墳や方形周溝墓があり(こちらは莵狭都比古、莵狭都比売の墓所と言われています)、遺跡には事欠きませんが、弥生のクニの存在を示す集落跡が発見されていません。
以上、北部九州における有力な比定地から、私の独断で5ヶ所選抜してみました。(以下、次号に続く) 下に地図あり。↓
松戸:高見航毅

作者:日本Webリポートt&ニュース
更新日:2008年10月26日 12時57分

